仁川・仁川神社跡

 仁川女子商業学校は東仁川エリア、水仁線新浦駅からすぐの小高い丘の上にある学校です。

 

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ネイバー地図のキャプチャー写真です。丘の一部は人口滝になっており、市民のちょっとした癒しスポットになっています。この人口滝、変な位置にあるなあと気になっていたのですが、この人口滝は海に突き出た崖の一部だったそうで、一帯は日本統治時代、東公園と呼ばれる公園でした。

 

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写真はこちらより。東公園にはその昔仁川神社があり、このあたりは宮町と呼ばれていました。現在の学校は1945年以降にできたものです。

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写真はこちらより。

 

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神奈川大学非文字資料研究センターの仁川府海面埋立図昭和六年現在よりキャプチャー。ちょっとぼけててすみません。
1890年、仁川居留民14名(第一銀行支店長、日本郵船会社支店長、仁川病院長らが名を連ねています)が発起人となり、彼らの呼びかけによる寄付金によって建てられた神社です。当時この辺りには寺社仏閣が集まっていました。学校の敷地には神社の遺物をはじめ、日本人居留民の足跡があちこちに残っています。

 

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鳥瞰図絵師・吉田初三郎による『仁川(1929年)』を拡大キャプチャーしたものです。。東公園は西公園に対する名称です。西公園は仁川の各国の租界地内に造られた韓国最古の西洋式公園、つまりマッカーサー像のある現在の自由公園のことで、日本統治時代にはそのように呼ばれていました。以下、東公園の説明です。

-殆ど市街の中央に位する丘上にあり、園内に皇太神宮並に明治天皇を遷座し奉る仁川神社がある。なお花房子爵手植之松(明治四十年渡鮮の際植樹)が在ったが枯死して今はない。なお社務所前に大正三年居留民団撤廃に際し記念の為め櫻木を植え及び碑石が建てられた。彰忠碑に就ては先に述べた。眺望殊に絶佳である。この勝地を居留地創生時代既に公園に選定したる吾等の開拓者に感謝すべきである。
-仁川府史(1933年)より抜粋

桜の木がイラストにも見えますね。桜やいろいろな木が植えられる前は禿山に松が植わり朝鮮ツツジが少し咲いている程度だったとのことです。

 

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記念碑のような石がこんなふうな形で残っています。“開港記念”と彫ってあり、これが資料の中の大正三年(1914年)のものかどうかはわかりません。仁川港の開港は1883年です。

 

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1894年 稲荷神社鎮座、1922年社殿改築
1897年 金刀比羅宮鎮座、 1925年社殿改築
1897年 天満宮鎮座 、1926年社殿改築
1908年 愛宕神社鎮座、 1929年社殿改築

 

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階段の一部でしょうね。

 

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参道とわかるようなのも。石灯籠もあるそうですが時間切れで。

 

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仁川府史より。東公園は元々李貴萬(李王族)の所有地で墓地にしようとしたところでしたが、仁川の有力者らが安く買い取って日本公園とし、神社を建てることを希望しました。東公園は神聖な場所であるとともに、居留民の憩いの場所でもあるべきだと遊興施設が併設されました。水月楼と第一楼(明月楼?)という高級料亭ができてにぎわったそうです。

-西洋料理店一軒、料理店一軒、飲食店一軒、遊技店一軒、茶店二軒と限っている。今の矢阪楼はその遺物である-
-今の矢阪の位置には明月楼及び第一楼の二軒の料理屋が開業したのである-

仁川府史(1933年)より抜粋

水月楼は‘善美ノ酒、加フルニ美酌婦ノ多キコト眺望ノ絶佳ヲ以テス’(仁川事情、1892年)とあるのでステキなところだったのでしょう。明月楼、水月楼はのちに八阪ユリという人の手に渡り、矢阪楼として大変にぎわったといいます。

 

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仁川女子商業学校の近くにはこのような建物があります。外観はだいぶ変わっているものの、遊興施設だったような雰囲気を感じたのですが気のせいでしょうか。お隣町(現在の新興洞)は敷島遊郭がありました。仁川にあった遊郭の位置や歴史を改めて確認できたらと思います。

 

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