済州島翰林文化遺産巡りその3


翰林(ハルリム)の散策で一番見たかったのがこちらの看板(この看板自体は1980年代に製作されたとのこと)です。びっくりです、火事で半焼しているではありませんか。以前の様子はこちら







木造の平屋は、現在建物の所有者の父親が日本人と共同で興した鉄工所で、看板には「1927年塗装業第1号일정시(ここよくわかりません)特許技術スクリュー専門スウォン鉄工所」とあります。この鉄工所で船舶の修理をしていたそうです。










半焼とはいえ、かなり焼け出されていました。ここは今後どうなるのでしょうか。







誤操作でスマホのフィルター効果ボタンを押してしまったようで、かなりのビンテージ風になっています(笑)、ご了承のほど。天主教翰林聖堂に到着する頃は暑さのピークで、意識が朦朧としていました。アンスラサイトで休憩をしてそんなに経っていないというのにもう休憩が必要でした。朦朧状態なので、この玄武岩の建物と白い教会のコントラストが強烈なイメージとなって視界に入ってきました(この聖堂を見たあとは近くのカフェにまた入りしばらくぼーっとしました)。







天主教翰林聖堂の鐘の塔(鐘楼)は、1954年4月聖堂の初代神父として赴任してきたイム・パトリチオ(ハングル表記をそのままカタカナにしています)神父が設計した聖堂の一部です。聖堂は1955年5月に完工、地上3階建てで玄武岩を積み上げて仕上げてあり、当時はあたりで一番高さのある建物として知られていました。1999年の道路拡張により鐘楼部分だけを除き撤去され、現在に至ります。

時代的に済州島、とても大変な時期だったと思います。済州島だけでなくどこもそうだったと思います。50年代後半にできた建物を見るたびによく造れたよなあと。







こちらが新しく建てられた聖堂です。韓国ではなく、どこか遠い南の国に来たような雰囲気です。










翰林文化遺産巡りもようやく終わりに近づきました。最後の目的地は翰林教会です。







翰林教会は、1916年に造られた祈祷所から歴史が始まりました。もともとは海辺に教会がありましたが、1945年7月6日に米軍の空撃を受けて建物と社宅が全焼、牧師とその家族が死傷するという事件があり、教会が現在の場所に移されました。元々翰林神社があった場所です。その牧師というのが1942年に赴任した康文昊(カン・ムンホ、1899 ~ 1986年)牧師。1919年3月の万歳事件の時に独立運動をしたため実刑判決を受け、大邱刑務所で1年6ヶ月服役したという経験も持っています。
反日、反戦思想を掲げ活動していた牧師は、1946年12月に敢えて神社跡地に教会を移したのでした。牧師の強い意志のようなものが文字から伝わってくるようです。







この1945年7月の米軍攻撃のことを知り、ショックを受けました。済州島民の犠牲者が多くいたことも。日本軍は本土を守るために決号作戦という防衛作戦を実行し、済州島は決7号作戦として日本軍が大量に送り込まれました(わかりやすく説明した記事はこちらをどうぞ)。
日本軍の残した負の遺産をいくつか見ましたが、済州島の駐留日本軍が及ぼした影響と自然破壊についてはあまりよく知られていないのではないでしょうか。
美しい自然景観で知られる観光名所に行くとだいたいあるので、わ、またかと正直気分が重くなります。







「済州島近代建築散策(제주근대건축산책)」(キム・テイル著)。
「済州の声」というインターネットサイト掲載記事を再構成・加筆してまとめた本です。
バスに乗って旧市街を走っていると、気になる建物(統治時代ぽいのだけでなく)がたくさん目に入ってきます。建物それぞれに様々なエピソードがあります。次はここに行こうかな、とわくわくしながら眺めています。

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