密陽・三浪津にて


慶尚南道の密陽(ミリャン)三浪津(サムランジン)を訪れたのは、五月のはじめ。勿禁(ムルグム)に住む友人を訪ね、機張(キジャン)の海辺にある本屋さんなどを見て、コーヒーを飲みながらちょっぴり深刻な人生バナシをしたのですが、きれいな海を見て風にあたっていたら心が少しずつ軽くなっていきました。
翌朝には、せっかく慶南まで来たのだからと、よし、古い建物のひとつでも見て帰ろうと思えるまで回復しました。勿禁から気軽に行けるのは三浪津でした。その気軽は実はそんなに気軽なことではありません。もう来ることはないかもしれません。なので思い立ったらすぐ行く、ただそれだけです。







三浪津駅の給水塔を見ようと思いました。 本当は、この給水塔だけでもよかったです。ずんぐりむっくりとした給水塔、とてもかわいらしい大きさです。登録文化財第51号、1923年に造られました。蔦に覆われた姿も見てみたいものです。







上部は鉄筋コンクリートで模様を入れてあります。遠くから見ると木??と思ってしまいます。下部は石造り。次の電車が来るまで40分くらい時間があったので、駅周辺を歩こう、そういえば鉄道官舎があったはず、と  。







イパプナム。 和名はヒトツバタゴ、なんじゃもんじゃ。
響きがとても面白い木の名前です。 ケナリ(チョウセンレンギョウ)の花が咲き終わった五月の始め、イパムナムは雪のように真っ白なこんもりとした花を咲かせ、通りがにぎやかになります。ポップコーンのように、ぽんぽんと音を立ててはじける米菓子のように。
小さな町、三浪津もこの花でいっぱいでした。







1911年発行の『朝鮮鉄道線路案内』によれば、三浪津邑内(三浪津邑松旨里)に住んでいた日本人は179世帯、603人だったそうです。







鉄道官舎街は駅から北へ約200メートル離れた山の斜面にあります。地図を見ればグリッド状の道があるのですぐわかります。立派な石垣の上に家があります。







1927年から1945年にかけて34世帯17棟が建てられました。職級によって大きさが異なり、6等級(駅長クラス)1棟2戸、7等甲級(主任、副駅長クラス)5等10戸、7等乙級(甲と同じ)2棟4戸、8等級(その他下級駅員)9等18戸。1970年半ばまでは井戸もありました。鉄道病院(1989年撤去)の他、すぐ近くに神社がありました。神社跡には圓仏教の幼稚園があるとのこと。










これはおそらく7等の連立住宅じゃないかな?8等??










主要道路は幅7メートル。むかしはおそらく小川や生垣があったりしたと思います。いつかどこかで見た風景が広がります。ほとんどの官舎が外観は変わり、二世帯の片方が建て替えられてすっかり現代風になっているものの、全体的によく残っていると思います。

きれいに整えられた鉄道官舎のある区間。建物が建つ前はどうだったのでしょう。住宅は誰が建てたのでしょう。この石垣を造ったのは一体どんな人たちだったのか。資料に詳しいことは書いてありません。
きれいな官舎街に入居しようとやってきた人たちも知らないだろうし。

最近、地方都市に行って日本人町を見るたびに、朝鮮王朝時代の町の構成以外にも考えることがひとつ増えました。追い出されたであろう人々や家があったかもしれないのだと。彼らはどこでどんなふうに住んでいたのかを。

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