釜山加徳島・外洋浦砲陣地


釜山加徳島(カドクト)の南端にある灯台をずっと前から見たい見たいと思っていました。大変装飾的な白亜の灯台は釜山地方海洋水産庁の敷地内にあり、あらかじめ見学の予約が必要です。余裕余裕と思っていたらあっという間に旅行前日になり、結局予約を忘れ行けずじまい、とほほ。

同じ島内、外洋浦(ウェヤンポ)にある旧日本軍砲陣地と付属施設を見に行くことにしました。巨済島(コジェド)に行ってから釜山への帰り道に寄りました。










釜山市内と加徳島(釜山広域市江西区です)および巨済島(コジェド)を結ぶ巨加大橋はドライブにぴったりの風景が広がり、加徳島におりると大変のどかな風景が迎えてくれます。村を歩いていくと、戦争の傷跡のようなものが徐々に見えてきます。








日露戦争時に日本軍がロシア艦隊の慶尚南道鎮海(チネ)湾の侵入を防ぐために、 外洋浦には1904年8月から12月にかけて砲陣地および軍幕舎が建設されました。第三臨時築城団長松井庫之助の指揮で、請負業者中谷廣吉が工事を請け負いました。1905年4月に鎮海湾要塞司令部が外洋浦に移され規模が拡大、司令部が1909年8月末に馬山(現在昌原市)に移転すると、重砲兵大隊へ格下げになり、維持されていたと推測されています。







司令部発祥の地の碑、明治三十八年四月とあります。資料によれば裏には昭和11年とあるので、1936年に記念碑をたてたのだろうと言われています。裏はチェックするの忘れたなあ。








砲台の付属機関として、指令所、観測所、監視所、発電所、照明所、掩灯所 (えんとうしょ、探照灯を格納する所)、弾薬、弾丸庫、砲具庫、宿泊所、弊社、貯水所、厠などがあります。











こちらは厠、トイレですね。案内板が至るところにあるので、どこが何なのかは見ればわかるようになっています。








土地が軍のものになる前、外洋浦の民家は70戸あったと言われています。1905年3月、韓国駐剳軍司令官長谷川好道の報告関連文書には64戸とあり、等級に合わせて補償金を与えると書いてあります。しかし、実際はほとんど支給されなかったそうです。土地に対する補償も結局なく、松井庫之助の報告には、“住民は鎌などを持って訴えてくるかもしれない”とあります。












空間ごとに案内板と昔の写真があります。あまり時間がなかったので簡単に見て写真を撮って回りました。
請負業者の中谷廣吉は釜山在住、血縁によるコネで軍とつながって工事を請け負い、鎮海や元山(ウォンサン)の砲台建設工事や、朝鮮統監府庁舎や官舎、龍山師団司令部庁舎、いやはや朝鮮鉄道工事にも関わっています。かなり有名な人物だったようです。だいぶ儲けたのでしょうね…








続いては生活面。官舎4棟、事務室および衛兵(番兵)所4ヶ所、幕舎11ヶ所、倉庫8ヶ所、井戸5ヶ所が残っているとのこと(2010年6月時点)。上の写真は連立タイプの官舎だと思われます。
















長い屋根のこの家は砲台司令部事務所だった建物。
















ネイバー地図のキャプチャーです。右下が砲陣地、青や緑の屋根はほぼ元日本軍関連の建物と言ってよいでしょう。
訪れたときには港の整備をしていました。海辺はおそらくきれいになっているのだろうと思います。

調べているうち、とてもよく似ている京都舞鶴吉坂保塁及び付属保塁に行ってみたくなりました。それと横須賀の猿島。幼いとき毎年よく潮干狩りに行ったものです。次回日本に行ったとき訪れたいですね。

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