義王・富谷洞鉄道官舎


義王(ウィワン)市は京畿道(キョンギド)の東南部に位置、都市鉄道博物館、韓国交通大学校、韓国鉄道技術研究院があることで知られています。2007年2月に漢字表記が儀旺市から義王市に変更されました。これは1914年に広州郡義谷面・王倫面が合併して水原郡儀旺面となった、つまり統治時代にできた地名なので元の義谷面・王倫面の義、王の字に戻そうという動きだったわけですが、18世紀から19世紀の地図には義と儀、王と旺の字が混同して使われていたという主張もあるそうです。
ともあれ、1914年の合併で新しい地名ができました。







京畿道に鉄道官舎村があることを知り、ずっと行きたいと思っていました。義王市富谷洞(プゴクトン)。京畿道だしいつでも行けると思うとなかなか行かないものです。そして今年の春にようやく。
義王市、結構遠かったです。思ったより小さな駅、とその駅前からまっすぐのびる通り。その左右に鉄道官舎があると聞いていたのですがよく調べないままで来てしまったので、どこにどんな建物があるかわからない。とりあえず壁に直接描かれた棟番号「七」だけをようやく確認、それで満足して帰って来ました。
ツイッターに写真をアップしたところ、何かリプライがついていることに数日経ってようやく気がつきました。ん??お?
参考にしたブログの管理人聖山之気(ソンサンジギ)氏ではありませんか!





鉄道官舎に関しては個人的に思い入れが強いです。鉄道官舎の存在は、大田(テジョン)蘇堤洞(ソジェドン)の官舎村を通して初めて知りました。余談ですが大田に興味を持ったのは、大興洞(テフンドン)にあったとんがり屋根(1929年頃築)の家が撤去されその後どうなるのかという話を聞いたこと、そして宣教師の韓洋折衷の建物が見たいと思ったこと、それがきっかけです。目的を持って初めて訪れたのは2013年のはじめ。鉄道の発展により近代(植民地)都市として成長した大田のあちこちに残る痕跡を探して歩きました。その後とても運がよかったのか、大田の近代に興味を持って研究したり芸術で表現したりといろいろなかたちで向き合っている方々に出会いました。彼らとの話の中で本当にいろいろと考えさせられましたし、日本人としての立場みたいなものについて正直悩んだりもしました。

同じような姿形をした平屋がいくつも並んでいるのを見るのがとても好きで、鉄道官舎村はまさにそれでした。その後順天(スンチョン)を訪れ、鉄道官舎関連の資料を読める範囲で読み、鉄道官舎村はたくさんあること、そして駅ごとにもあることを知りました。







富谷洞鉄道官舎村は、なぜこんなところに大規模なものがつくられたのだろう。不思議でした。富谷洞郷土文化研究会の存在は知っていたのですが、連絡先がよくわからないまま時間が過ぎていました。偶然とは面白いもので、義王駅前で写真展示をした時に聖山之気氏が関係していたそうで、縁はつながりました。富谷洞郷土文化研究会は、主に三洞(サムドン)地域住民(お母さんがたが多い)を中心としてつくられた団体で、歴史と地域の記憶をアーカイブ化し次世代につなげていくためさまざまな活動をしているとのこと。鉄道官舎村はそのコンテンツのひとつだといいます。
会長の高さんに連絡をすると、案内を快諾してくださいました。感謝、感謝です。メンバーでイラストなどを担当している方も一緒です。







富谷洞鉄道官舎は1943年に造成された住宅地です。1941年以降、龍山に集中していた鉄道関連施設と従事者を分散させるのも目的のひとつだったと言われています。富谷(ふこく)駅は1905年1月京釜線開通の時からあった駅ですが、官舎街から龍山への通勤者のために有人駅になったのは1944年5月とのこと。ちなみに義王(当時は儀旺駅)と駅名が変わったのは2004年6月です。
鉄道官舎は100棟(200世帯が住む連立住宅)が建てられました。中央路をはさんで北官舎、南官舎とエリアが分かれています。南官舎エリアにはほとんど残っていないため北官舎エリアを中心に歩きました。上の図は聞き取りなどで作ったもの、赤い点がついているのが2017年10月時点で現存している棟でした(そして2019年6月の時点でもだいぶなくなりました)。







計画的にできた道がまっすぐにのびています。








ソウル水色洞の鉄道官舎とは違って、広い庭がとても印象的。








水色洞も当時はだいぶ都市郊外の雰囲気だったとは思うものの、富谷洞の官舎村の田園ぽさ(周りはビラや集合住宅ですけれど)というのでしょうか、ゆったりとした長閑な感じ。期間的にはここに日本人が住んでいたのは2年にも満たないですよね。その後は韓国の鉄道関係者が住み、そして民間払い下げでいろいろな人が住むようになったそうですが、住んでいる方々は研究会のインタビューに協力的だったそうです。







職級によって官舎のレベルが異なりますが、こちらの官舎村は7等にあたる官舎で畳部屋(6畳と4畳半)、オンドル部屋そして台所と浴室。二世帯で一棟の連立タイプなので、上記の家の場合、半分はなくなってヴィラになっています。










こちらも半分だけ残っています。







路地を入るとぱっと広い畑が現れ、大変保存状態のよい棟が。こちらの住人はインタビューは遠慮されたとのこと。場所的にも保存状態的にもとてもよいので鉄道官舎村の歴史を伝える展示館として整備したいのですが難しいですね、と高さん。
協力的な方もいれば、日帝時代の建物を何のために残すんだ?と不快感を示す方もいます。いろいろな意見があって当然ですね。













廃品回収場の中にある官舎。増改築をして生活しやすいようになっていました。







中央通り沿いの店も鉄道官舎の変形が多く、ここがそうだあれがそうだと細かく教えてくれました。研究会の活動場所である住民センターのようなところに行き、資料を見せながらいろいろな話をしてくれました。
婦人会活動をしていた人の話、裕福で写真が趣味だった方のインタビューを繰り返すうちに親しくなり自伝を作った話、提供してくれた写真が貴重な資料になったこと、官舎村造成のために破壊されたコミュニティー、別の場所にうつった人々の話、植民地時代にできた住宅だけれどそこに長年住んできた人々の歴史はとても貴重で残していきたいと。




植民地化、悲しい歴史、近代化、インフラ整備。

富谷洞鉄道官舎村に興味を持ってやってきた日本人と、こんなふうに話す機会がくるとは思わなかったと高さんは微笑みました。とはいえ、三人で話していて互いに居心地の悪さを感じたり、違和感を覚えたりする場面はありました。立場が違いますから当然です。初めて話す日本人(観光地で少しすれ違うのではない)、自分の見知っている日本に対するイメージは人それぞれです、何気ない一言がチクっと胸が痛むこともあります。同時にこちらも同じように何気ない一言に毒を盛ってしまっているのだとも思います。

今まで、あからさまに不快な表情を浮かべ日本がしてきたことを怒ってくる人もいました、日本大好き、近代化は統治なしにはできなかったと笑顔の人もいました。私の親族は苦しめられたからあなたには悪いけど日本は嫌い。いろいろあるけれど未来を見て仲良くしていかないと、そのためにはお互いの歴史を見つめていかないとという人もいます。

何のために。日韓の!と重い意味を付与してつくっているブログではありません。残念だけれど私は私以外の人ではないし、私以外の人もまた私ではない。その立場じゃないからわからなんですよ、と日韓問題の日常から大きな国レベルの話をする時言われこともあります。でもなあわかんないんだよなあ、わかってなくてごめんとしか言えなくなります。
けれども、これからも人に話を聞きにいって、その場に立ってみて、建物を見て、当時住んでいた人、その後住んでいた人のことを想像して自分の頭で考えたいなと思います。で、あなたはどう考えているのですか、よかったら聞かせてもらえませんかと。あんまり不快な目に遭えば切るのも続けるのも自由。
日韓いろいろありますが、飽きるまで納得できるまで自分の足さばきでできたらそれはそれでいいいんじゃないかなと。

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