東海・旧三陟開発社宅、合宿所


長い間ずっと行きたいと思っていた社宅街のうちのひとつ、東海・旧三陟開発社宅、合宿所。2010年2月に登録文化財第456号に指定されています。
1937年に三陟開発株式会社傘下の北三化学の社宅として造られ、1944年にも新たに数棟建てられました。現在はDBメタル(前身は三陟開発株式会社が戦後払い下げられてできた会社、三陟産業株式会社)という会社の所有となっています。

写真を整理してみると長屋の写真ばかりで、幹部の家や職位の高い社員宅をほとんど撮っていないことに気がつきました。どれだけ長屋好きなのでしょうか。同じ形をした長屋が素敵な間隔で三つ以上並んでいると本当にうっとりしてしまいます。ここはまさにタイプの中のタイプでした。よって写真は長屋ばかりです、ご了承ください。







東海(トンへ)は、江原道(カンウォンド)の中南部に位置、海に面した都市です。かつて南部は北坪(プッピョン)、北部は墨湖(ムッコ)と呼ばれていました。 江原道東部は鉄鉱石と石炭が豊富で鉱工業がかつて盛んで、1930年代後半から開発が進みました。また、東海市から三陟(サムチョク)郡にまたがる一帯の山地は石灰岩が豊富であり、セメント工業が今も盛んです。

三陟開発株式会社は、日本電力という民間電気会社が火力発電用石炭を日本へ運び出すことを前提にして、1936年に創立した会社です。石炭を運び出すための鉄道会社も同時に作られ、墨湖港の建設も進めました 。日本国内における電気の需要が増えるとともに、特に関東大震災以降電力会社が多く生まれましたが、日本電力は東京電燈、東邦電力、宇治川電気、大同電力とともに 5大電力会社と言われていました。三陟開発株式会社は炭鉱の開発だけでなく、カバイトおよび石灰窒素、カーボン電極を生産する北三化学工業所を設置しました。







社宅の配置図(『 東海旧三陟開発社宅と合宿所記録化調査報告書(2014)』 のp47より。
社宅街はA号1棟、2および3号社宅が14棟、4号連立社宅が12棟で構成されています。A号は工場長の家、一段高いところにあり階段を上がると玄関です。現在もどなたかが住んでいるようです。







A号のとなりに合宿所の建物、こちらはU字型をしており、共同浴場とトイレ、食堂、そして倶楽部と呼ばれる大きな空間も。独身向けの部屋が22室、VIPルームが2室であわせて24室。一部屋5人まで収容可能だそうです。







こちらは3号社宅かな?色が、申し合わせたように素敵なブルーでびっくりしました。ブルーグレー、ミント、ブルー。色の量も完璧なのです(こちらの目にはそう見えました)。







訪れた日はあいにくの雨、降ったり止んだりの曖昧な天気。けれども雨の日ならではの潤いが社宅の敷地すみずみまでいきわたっており、畑の野菜も表情豊かに見えました。今も住んでいる人たちの生活のにおいがほんのりと感じられるというのも大きいと思います。もちろん今の姿がかつての賑わいとは程遠いとしてもです。
そしてところどころにあった砂利を見て、あ!と声が出ました。社宅の曖昧ブルーに似ているではありませんか。
建物を見るときに個人的に重要視しているのがまわりの風景との調和、そして意図したわけではないが色の具合と配置が絶妙であるということ。だから現場にいかなければなりません。植物に覆われているかもしれませんし、放置されたまま朽ちていくにまかせているかもしれない。そこに行くことの大切さですね。語ってしまいました。
さて、東海・旧三陟開発社宅、合宿所は上記ふたつの条件を十分に満たしていました。 ゆったりとした広い敷地に、余裕のある配置であることも大変気に入りました。







緑と長屋、そしてにんにくやらとうもろこし?やらが干してある素朴な様子は、見学時間が短かったものの深く印象に残りました。







生活道具の位置も窓枠もドアも位置が計算されているわけでもないのに、とにかく見てて心地よいのです。うわああっとずっと大げさに声をあげてしまいました。










それではそろそろ次の場所へと車のほうへ戻ろうとしたときに見えてきたのが、こちら。サムウ社宅。古い集合住宅のようです。







人は住んでおらず、木の板でいろんなところを塞がれてちょっぴり痛々しい外観。逆に中に入りたくなってしまう、なんて(笑)古アパートの無表情さを覆うように緑が生い茂っていました。イチョウや桜の木もあったので季節になればまた別の風景を見ることができるかもしれません。
また訪れたいと思いました。

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