金堤・旧桝富太郎宅(?)

全羅北道(チョルラプット)金堤(キムジェ)。広大な平野があり、古くから稲作が盛んで現在も韓国を代表する穀倉地帯として知られています。百済時代から碧骨堤(ピョッコルジェ)という貯水池が整備され、統一新羅時代、朝鮮時代には大規模な修築が行われました。碧骨堤の遺構を見ようと訪れる観光客も多く、毎年秋、碧骨堤で開かれる金堤地平線祭りは大変人気があります。金堤という地名は秋の日差しに輝く稲穂の「黄金色」と、農業用の貯水池、つまり碧骨堤の「堤」に由来するといいます。
このように肥沃な土地であったため、日本統治時代には多くの日本人が移り住み農地、農場、果樹園などを経営をしていました。金堤の米が運ばれた先は群山(グンサン)。そして港から日本へ輸出されました。今回ご紹介するのは金堤駅の近くにある日本家屋です。金堤駅のある新豊洞(シンプンドン)には多くの日本家屋が残っています。登録文化財に指定されている家屋や、鉄道官舎などもあります。そのあたりの紹介はまた別の機会に。さてさて、こちら、見事な和洋折衷の住宅ですが、2019年5月のこちらのニュース記事でその存在を知り、撤去される予定であるものの保留になっているとのことで見てきました。

記事によれば、光州市に所在するO住宅建設へ所有権が移り、建物二棟を建てるためこの建物を撤去する予定だったのですが、建築台帳と不動産登記謄本の内容から1918年に建てられ、かつて日本人が所有していた建物だということがわかったとのこと。日本人の大地主により農場事務所兼住宅として建てられたものではないかと推定され、当時の金堤地域での歴史を語る重要な建物だという意見もあり、金堤市が建設会社に撤去の保留の要請をしたそうです。ただ、建設会社がいつまでも保留にしておくわけにもいかず。なかなか難しい問題です。

家のまわりの塀はすでに撤去されてなくなっていました。1945年以降は米軍が管理し、その後は1979年まで金堤女子高校の生活館として使用、その後個人が所有していました。しっかりとした造りであるのは素人の私にも伝わってきます。

また別のニュース記事によれば、この家に住んでいたのは、枡富太郎(ニュース記事で태랑とあるので一旦この漢字をあてています)という人物。全羅北道(チョルラプット)高敞(コチャン)および金堤で農場や果樹園を経営し、私立学校を建てて地域での教育と人材育成に力を入れた枡富安左衛門(ますとみ やすざえもん)という人物の養子だそうです。
担当新聞記者のメールアドレスへ連絡してみたのですが、戻ってきてしまいました。建築台帳や登記謄本などを見ればわかるのでしょうかね、どうでしょう。ともあれ、枡富安左衛門の名前はこの家を通して初めて知りました。こちらの人物について自分なりに少しずつ調べていきたいと思います。

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