世運商街・1

世運商街(セウンサンガ)。鐘路3街(チョンノサムガ)を過ぎるとあるユニークな形をした建物です。朝鮮王朝の歴代王や王妃の位牌を祀った宗廟の前にあり、小さな商店がいっぱい入っていて電子部品や電化製品を売っている、かつては大変賑わっていた電気街です。男性だったらエロビデオあるよと引っ張られるところ、ゲーム機やカラオケ機が無造作に置いてあるところというイメージが強いですね。

現在は、鐘路に面していた現代商街は撤去され、芝生の空き地になっています。なぜ芝生になったのかは後でお話するとしましょう。さて、世運商街というと鍾路に面した建物(現代商街)だけを指すと思われがちですが、宗廟(チョンミョ)から南山(ナムサン)近くの忠武路(チュンムロ)までの、約1キロに渡る建築群全体を指します。設計は韓国近代建築の巨匠と呼ばれる金寿根(キム・スグン、1931〜1986)です。

 

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清渓川路から見た世運商街の一つ、清渓商街(現在北から2番目の建物)、中央のオブジェ?は夜になると光るらしいです。オブジェが水平になるように撮ったのですが、建物がオブジェと平行になっていないのは、私がちゃんと写してなかったのかしら?

 

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1968年、2013年の大林商街(現在北から3番目の建物)、真ん中の外壁の模様がとても素敵です。

 

世運商街は、日本統治時代に造成された疎開空地帯と呼ばれる緊急避難場所の土地に建てられたものです。1945年3月10日に東京大空襲で壊滅的な被害を受けると、日本の大都市に疎開空地帯が作られました。朝鮮総督府もこれにならって京城(現在のソウル)を含めた朝鮮半島の19ヶ所に同じように疎開地帯を作る計画を立てました。第一次計画のときに、京城には宗廟前から南山へと抜ける疎開空地帯が作られましたが、第二次計画に着手する頃に終戦を迎えました。疎開空地帯は、米軍の進駐後国有地となったのですが、1950年に朝鮮戦争が勃発。その後被災民や北から逃げてきた人々が不法で住み着くようになってスラム化し、1960年代には大規模な私娼街になってしまいました。

 

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1966年4月、大統領朴正煕(パク・チョンヒ)から任命を受けて金玄玉(キム・ヒョンオク、1926〜1997)が第14代ソウル市長に就任。彼のあだなはブルドーザー。ソウルに地下道と陸橋、道路を次々と作り、南山に穴を開け、汝矣島や漢江沿岸を開発し、人口集中で住居不足が問題になっていたのでアパート(団地)作りに力を注ぎました。1970年のソウル市民アパート「臥牛(ワウアパート)アパート」崩壊事故の責任を取って退任するまで、ものすごいスピードでソウルの都市整備を進めました。いい意味でも悪い意味でも今のソウルの基礎を作った人物と言えるでしょう。

 

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乙支路商街アパート鳥瞰図

金玄玉市長は就任後の1966年6月にこのエリアを視察。7月頭には不法建築撤去を命令し、鍾路および中区区役所の職員を総動員して住民の説得にあたりました。元々は国有財産なので国からの許可を得る手続きが必要だったのですが、金玄玉市長には朴正煕という強力が後ろ盾がありました。なので彼には怖いものなし!何でもスピーディに物事を運ぶことができてしまいました。時代も経済復興で勢いづいていましたしね。

 

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こうして1966年9月には、アセア商街の起工式を半ば強引に行うところまでもってくるのに成功。世界の運気が集まるようにという意味で金玄玉市長は世運商街と名付けました。1967年10月には現代商街アパートが竣工、アセア商街が11月に…と次々と工事が行われていきました。が、最終的に完成した建築群は、金寿根が考えていたものとまったくちがうものだったのです。

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世運商街初期案の断面図(アパート部分)、(屋上ガーデン部分)

世運商街の設計案をいろいろと検討していた金玄玉は、最終的に若手の金寿根の案を採用しました。ル・コルビジュエのユニテタビタシオン(大型集合住宅)の特徴と、アリソン&ピーター・スミッソン夫妻を中心とした若い世代の建築家グループ「Team X」の計画案、メタボリズム理論、そしてスミッソン夫婦の空中ストリート、空中ガーデンなどの建築コンセプトを盛り込んだ野心作。金寿根はコンクリート建物群をソウルという海に浮かんだ船と表現、1階は車道と駐車場で吹き抜けにし、3階にはペデストリアンデッキ(高架になっている歩行者用の通路)、水路も通路に沿って作り、公園、郵便局も区民センターもあって…建物をガラスで覆ってアトリウムも作ってと盛りだくさんの計画を立てました。

えええ、そんなに話が大きいものだったとは!!

しかし、こうした計画が実行に移されることはありませんでした(とってもステキだけれど、無理でしょう)。ソウル市が一括して計画を進められず、現代・大林・三豊・豊田・進陽などの建設業者が事業をブロックごとに推進、北側から順々に現代商街(現在の鍾路世運商街)、アセア商街、清渓商街、大林商街、三豊商街、豊田ホテル(現在のHOTEL PJ)、新星商街、進陽商街が作られました。ペデストリアンデッキで全ての建物をつなげるということは当時の状況にそぐわず、結局デッキの下を人々は行き来するので(ああ、エスカレーターがあれば少し状況は変わっていたかもしれません)建物脇に階段が設けられて終わりに。ガラスのアトリウムなんでとんでもない状態に。金寿根の案はほぼ無視に近い状態となってしまい(何度も言いますが、やっぱ無理でしょう、当時の技術では)、作品リストから世運商街を外していたという…早すぎたのですね、時代が技術がついていけなかった悲運です。

 

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それでも、世運商街は世間から注目され、ソウルの新しいランドマークとなりました。ソウル市は、鐘路-明洞-小公洞(市庁あたり)-武橋洞(辛いタコ炒めで有名)と大きな商圏ができると予想しました。アパートへの入居希望者も多く、国会議員も住んでいるということでも話題になりました。商業的には、ソウルの電気街として80年代終わり頃からのパソコンの発展と共に全盛期を迎え、著作権関連の法律ができる前ではコピー天国としても有名に。

栄光はいつまでも続きませんでした。1970年頃から始まった漢江の南側江南(カンナム)の開発、1987年の龍山(ヨンサン)電子商街の出現で没落の一途をたどることに。

続く

 

 

 

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6 Comments
  1. りうめいさん、すごすぎます。最近りうめいさんのブログで学ぶことが多く、今回のこの記事も感動すら覚えます。本当によく調べられていて、素晴らしい。
    爪の垢ちょうだい〜。

    • ありりんさん
      そのようなお言葉いただいて、恐縮です。このブログを見て韓国に建築散歩でもいってみるか!なーんて方が一人でもいらしてくれたらと思いますが、なにぶんピンポイントで…

      • りうめいさん、ここにひとりそんな気にさせられている奴がいますよ。いつか、本にしていただきたい、とマジでおもいます。

        • >ありりんさま
          超ピンポイントですが、韓国を楽しむ別の切り口というのにこだわっていきたいと思います!

  2. 世運商街、懐かしいなぁと思ってググっていたらここに。
    韓国ノレのCDを集めていた頃にはよく立ち寄りましたが、独特の雰囲気があって面白かったです。
    りうめいさん、本当によく調べていらっしゃいますね。ただただ感心するのみ…!
    私のサイトにリンク貼ってくださって、ありがとうございます。

    • nabeさま
      わー、コメントありがとうございます!世運商街でこちらのサイトに来てくださって嬉しいです。韓国ノレのCD…、音源も現地に行って探す時代もありましたよね〜。独特の雰囲気ですよね。
      前は高架道路もあって薄暗かったですよね、チョンゲチョン。懐かしいですね。どうにかいい感じで残ってほしいですね…

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